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2017年12月
 今年もあと、師走の暦を残すのみとなりました。同じ時の進みなのに、年を重ねるごとに過ぎ行く速さが増して感じるのは私だけでしょうか?

 ちょっと早い振り返りですが・・・。私事で、母が昨年より急に痴呆症が進み、サービスを受けている施設の方やケアマネさんからも一時たりとも一人にしておける状況ではないとの事で、通常一年に一回の介護認定 母は12月なのですが、8月に急きょ再認定をお願いしました。今まで母は要介護2でしたが要介護4との認定。今は要介護3以上でないと特別養護老人ホーム(以下:特養)の申し込みが出来ません。新しい認定を受け、市内の施設に入所申込書を提出。入所の結果は相当先の話ということでしたが、まずは一歩を踏み出しました。しかし母の進みは早く、昨年暮れぐらいになると目の離せない状況になり仕事にも支障が出始めて参りました。そんな時、ある方の口添えで介護老人保健施設(以下:老健)に今年1月17日に入所が決まりました。その後、各特養から申し込み順番の通知が来ましたが、早くて50番台その他は100〜200番台です。特養入所は、時間が掛ると覚悟を決めたおりました折り、この9月に特養入所の順番が来ました。そして10月17日に母は移動。
 老健は、入所者の社会復帰を目指すところに重点を置く施設で、看護師さんが多く、特養は入所者が安全に穏やかに過ごせる環境に重点を置く施設で、看護師さんより介護士さんが多い施設です。母は後者の施設が向いていると思い、一日も早い入所を願っていたので、ホッとしております。
 このことが今年一番の出来事で、家庭は言うに及ばず、仕事面でも一人誰かを補充しなければとも考えましたが、行わずに済みました。

 先日“第三回 和樂の会”が天屋旅館で行われました。今回は前より知っていた前進座が11月23日に柏崎で「たいこ どんどん」を演じるということで、これに絡めて前進座の小林さん(事務の方)に前の日の和樂の会に役者の出席をお願いしたところ、快く引き受けて頂き、会が行われました。
 NPO法人きものを着る習慣をつくる協議会の中塚一雄さんの講演、その後の前進座の中嶋宏太郎さん松浦海之介さんを交えた宴の席では二人の前宣伝やプロの余興 そしてお客様の飛び入りの余興が飛び出し、最高の宴となりました。
 主催側の贔屓目ですが、プロの役者のお客様をおもてなしする力を目の前で見、またお客様の心地よい乗りに一つの大きな楽しい輪が出来たような気がし、和樂の会やってよかったと思いました。ご参加下さいました皆様、本当にありがとうございました。来年も乞うご期待下さいませ。

 宣伝です。12月1日から4日までの4日間、一年間のありがとうの気持ちを込めて、「感謝・御礼の会」を行います。この4日間は、お客様が販売価格からどれだけ安く買えるか私と競い合いませんか?私も年に一度だけ「成せばなる、成さねばならぬ何事も 成らぬは人の、なさぬなりけり」の気持ちになり電卓をたたかせて頂きます。お客様の気持ちになります。お客様は私の気持ちになって下さい。
 わのわ通信とホームページを見て頂いている方だけの今年最後の締め括り、宜しくお願い致します。
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2017年11月
 先日、いつも行く美容院に行った時の話です。
 美容院?そうです。この頭、美容院のカットです。笑わないで下さい。いつもはそこの店長?社長?にカットをして頂いております。普通の方は前もって予約を入れてから行くと思いますが、私の場合その日の朝とか日中に突然「今日、カットできる?」と電話をし、空いていたら「じゃ〜行くね」、空いていなかったら「じゃ〜また後日」と言う具合で、気分で連絡を取っております。その日も電話を入れたら社長が不在。「私で良ければ」との女性の声、先月もそうだったのですが今月も社長不在。「いいですよ。お願いします。」と答え直ぐに向かいました。
 美容院に着き、まずはシャンプーです。このシャンプーが気持ち良くて、出来る事なら毎日通いたいくらいです。美容院は仰向けにイスが倒れ、顔にハンカチを掛けられシャンプーをします。シャンプーのときもカットのときも、だいたい眠ってしまう私ですが、その時 フッとあることが頭をよぎりました。還暦を過ぎた男の頭を若い女性が触り、一生懸命シャンプーをしてくれる。そして薄くなった髪を一生懸命すくい上げカットしてくれる。これって加齢の漂う男にとっては夢心地の思いです。
 何で今までこの感激に気づかなかったのだろうか?と思う今日この頃です。少し変ですか?

 感激を頂きました。先月、私の勝手で「創業50周年販売会」を行いました。普通なら創業50周年といえば、祝賀会や記念講演などを思われる方が大半だと思います。販売会などとは手前勝手なお誘いにもかかわらず多くの皆様にご来場賜りました事、心より感謝と御礼申し上げます。

 今月は「越後染物語」と題して、主に十日町の染物をご紹介させて頂きます。ご紹介にあたりまして一言。
 今年3月の話ですが、東京・両国で米沢の全織元が参加した催事に行った時のことです。会場で懐かしい人に会いました。木村かつみさんです。木村さんとは10数年前にお会いしたきりで、本当に久しぶりのことでした。それ以前は毎年のように、きものアドバイザーとして柏崎に来て頂いておりました。木村さんに創業50周年の話をし、何か紹介するものは無いかと尋ねたら、新潟には染物の産地、十日町があるのだから、記念催事に十日町の染物を中心にお客様に紹介したらいいのにとの提案、そしたら私も久しぶりの柏崎に行けるし、わのわさんのお客様にお会い出来るし、楽しみとの事でした。
 私も地産地消を言い続け、越後の織物には継続的にご提案をしてきましたが、染物に関してまでは行き届かなかったと反省しております。木村さんのご提案に従い、今回紹介させて頂きます。木村さんは、全国屈指のきものアドバイザーです。特に江戸の粋な着こなしに関しては天下一品で、染物に関する知識も凄いです。木村さんを御存じの方は久しぶりの再会で、きもの談義に花を咲かせて下さい。初めてお会いする方は、きものに関して解らないことや疑問に思っていることがありましたら、この機会に御質問下さい。
 そしてもう一人頼もしい助っ人、十日町・雪布庵の越村正巳さん。十日町の染物・織物に関して解らないことが無い方です。木村さんは2日間(9日〜10日)・越村さんは全日店に居りますのでお越し下さいませ。心よりお待ち申し上げております。
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2017年10月
 今、頭の中は10月に行う「創業50周年記念販売会」でいっぱいです。
 この記念販売会に協力して頂くところを考え、お願い先を絞り、9月に入り直ぐに交渉をして8社の協力を得ることが出来、同封の「わのわ通信」に発表することが出来ました。そして素晴らしい商品を皆様にお披露目する機会を得ました。メインの野々花染工房の作品・きくちいまさんオリジナルのスカラの作品、みんな素晴らしいです。
 今回は作品だけではなく、ゲストをお二人呼んでいます。野々花工房の諏訪豪一君からは、作り人の苦労話やこだわりを、スカラの作品作りを監修した きくちいま さんからは、どのように自分の思いを作り人に伝え作品を完成させたか、直接話しを聞いてみて下さい。ということで皆さん今回は、作品を見て手で触ってお気に入りを見付けてお求め下さいますようお願い申し上げ、ご来場を心よりお待ち致しております。
 すごいことを言ってしまいました。押し売りは致しません、ご安心ください。でも力(リキ)が入って説明が鬱陶しくなるかもしれません。その時は、「ありがとう。もう結構です。」と一言お願い致します。
 織物が主な記念販売会です。お越し頂いて、「友禅の訪問着はないの?」「金銀糸の入った袋帯はないの?」「振袖はないの?」とご希望の方はご遠慮なくお申しで下さい。次回の参考にさせて頂きます。

 今年は、いろんな意味で節目の年です。この仕事に就いて私自身40年になります。仕事の中でいろんな別れがありました。人との今生の別れ、意見の違いでの別れなどなど、時の流れや感情の違いから生じるものです。ある意味年を重ねると仕方ないことかと思います。
 最近特に、物との別れが辛いです。8月も3件の別れ話を聞きました。1件は十日町の西川織物。織物専門の機屋で、夏大島・夏結城など多くの方にお求め頂いた商品を作っていました。もう1件も同じく十日町の根茂織物で、江戸小紋・江戸紅型を中心に製作をしていたのですが、辞めました。今回、見納めの江戸紅型の小紋を1反展示することが出来ました。是非、ご覧にお越し下さいませ。最後に小千谷の山恭織物、ここは小千谷縮の絣を主に作っていた織元です。息子さんが公務員で家を立て直すことになり山恭のご主人はまだ仕事を続けたかったのですが、新築の家に織り場を作る気がないと言われ、廃業を決心したそうです。いろんな辞め方がありますが、その度に伝統が途絶え、引き継がれてきた きものや帯が消えて行きます。それらは見ることも触ることも出来なくなります。時代の流れ、本当に残念な別れです。
 私のこれからは、時あることに無くなりつつある作品、希少価値の作品などを多くの人に見て頂くことを念頭にお目に掛けれる機会をつくって行きたいと思っております。その都度ご紹介をさせて頂きますので、お気軽にお越し下さい。

 なんだかまとまりのない話になってしまいました。本当に今は10月5日〜7日までの「創業50周年記念販売会」で頭が満杯です。最後に皆様のお越しをお願いし、締めさせて頂きます。
2017年9月
 先月のひとり言では、後悔と市場の売上の急降下の現状をお話し致しました。
 きもの業界は、私が就職する数年前くらいが最高の売上だったそうです。
 その後は、ジワジワと右肩下がりの状態が今日まで続いております。そんな中、全国チェーンの小売店と大展示場での展示販売会が主流となり、華やかな販売合戦が繰り広げられ、既存の小売店並びに私たち地方問屋の生き残りを掛けた戦いが始まりました。
 第一に考えたのが、問屋業をやっていけるかどうか?と言うこと。そのことについて懇意にしていた京都の総合問屋と十日町の産地問屋の言うことは一緒で、近い将来新潟県内で3本の指に入ることが出来れば問屋業をやっても大丈夫、入らなければ他の生きる道を考えろと言われました。その頃は、新潟県内でもきものを扱う問屋は数十社ありました。将来3社の中に残れるか?答えは簡単。無理です。実際に現在新潟・長岡・上越に各一社の県内は3社のみです。では、これからどうするか。そんな時、叔父の「糸偏に絡んだ人間は糸偏から抜け出せない」という言葉を思い出し、生きる道はきもの専門小売店と思いました。

 現在に至るまでに、店として二人の方に大きな影響を受けました。お一人は京都の草木染作家・野々村暢香さん。1990年から年に一度来柏し、きものの販売はお客様と商品ではなく、お客様と作り人、そして販売する人との人間関係であることを教えて頂き、それを深めるためにきものパーティや旅行そして接客方法などを20年間伝授して頂きました。
 もう一人は、1998年からお付合いのあるNPO法人きものを着る習慣をつくる協議会の理事長中塚一雄さん。中塚さんには、作り人や織人などきものに関わる人との橋渡しをして頂く事により、きものの制作方法・用途・それらにまつわる知識などなどを教えて頂き、それを皆様に知って頂くための伝達方法などを教えて頂いております。中塚さんとは現在進行形で20年を超えるお付合いとなっております。
 このお二人は、私の進むべき道の案内人。
 そして、その道を進むべきかどうかと相談した、今も健在の私の叔父。叔父のお蔭で間違った道を進まず今ある道で良かったと感謝しております。

 進むべき道を示して頂いたお二人、適切なアドバイスを示してくれた叔父。さらに“わのわ”が今あるのは、皆様お一人お一人が暖かく見守り、心から応援して下さっているお蔭です。
 最後にもうお一人、私の親族を除き私たち夫婦を今でも暖かく見守り、心から応援し育てて下さっている私の小学校低学年時代の恩師。(個人情報上、個人名は控えさせて頂きます)私が小売業を行うことを決心し、野々村さんの催事にお抹茶をお客様にお出しすることを考え、先生に助けを求めに行ったのが大人になってからの先生との出会いです。あれから30年、先生にはいまだにお世話になっております。 
 創業50年を想い、自分の人生を振り返ることが出来ました。私は多くの人と出会い、多くの人から教えを乞い、多くの人から助けられ、多くの人から応援していただき今日があります。こらからも多くの人と関わりを持ち楽しい毎日を過ごして行きたいと思っております。
 ちぢみ屋正兵衛のひとり言で50年をちょっと振り返ってみました。大事な大事な皆様への御礼と感謝の文が短くて済みません。上手く文に表しお伝えすることが出来ません。お許しください。
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2017年8月
 今年7月29日で、わのわ(有限会社 北越)は創業50年を迎えました。私の父(故・小林正信)は私が中学1年の時まで市内の総合繊維問屋に勤務するサラリーマンでした。1968年(昭和43年)に理由あって株式会社 北越の社長に就任し、その後を私が継ぎ今日に至っております。
 父の社長就任の理由を申しますと話が長くなりますので省略させて頂きますが、ある日突然「社長になった」と言われても中学生の私にはピンときませんでした。我が身に掛かってきたのは高校入試でした。
 私が当時、工業高校の進学を望んでいたのを、父の希望で商業高校へ変えたのです。昨年、私の中学の担任だった恩師が突然店に来られました。熊本地震で被災に遭った呉服店を支援した新聞報道を見ていらしたのです。「小林君、頑張っているね」「まァ何とかやってます」そう答えると、先生は「私は、あなたが気がかりでした」とおっしゃいました。忙しく出張で飛び回っている父の代わりに母が進路相談に行き、父が商業高校への進学を望んでいると聞いた先生が、父の強い意向に沿い、母と願書の手続きをしたそうです。そしてその後の私が気がかりで四十数年見守っていて下さったそうです。そんなことなど何も知らず、高校時代は停学スレスレ生活をし、社会勉強という名目でやっと入れた大学では本当に大学の勉強ではなく、社会勉強だけでした。先生は、「あなたがお父さんの後を継ぎ、そして人の役に立てる人になってくれた今、あの時お母さんと一緒に書いた願書が間違いなかったと思えるようになりました。本当に頑張っているね。これからも頑張ってね」と言い、帰っていかれました。

 1976年(昭和53年)株式会社 北越へ入社。叔父から「糸偏に就職した者は糸偏から、金偏に就職した者は金偏から抜け出せない。その覚悟で就職を決めろ」と言われました。何となく納得したのですが、叔父は国鉄という金編から糸偏の父と一緒の繊維問屋で働いて独立し、繊維問屋を営んでいたのです。苦労をしたのでしょう。今でも叔父のその言葉を時々思い出します。
 そしてこの業界、普段使わない物の名前が多いことに慣れるまでが大変でした。例えば着尺・羽尺・八掛・胴裏などなど日頃口にすることのない名称。そして専門的な長さの単位「尺」です。これも慣れるまで長い年月苦戦しました。それが今では慣れた尺が通じずセンチメートルです。慣れとは怖いもので、尺からセンチに今、苦戦しております。
 入社当初の北越は問屋業専門でした。このころの地方問屋は、その地区に根付いた範囲で卸業を営む事が普通でしたが、我が社の得意先は県内・市内はもちろん、山形県・秋田県・千葉県まで多岐に販路がありました。故に月に20日間以上は出張をしておりました。最初は出張が嫌で嫌で、出ると後何泊で帰れるかと帰る事ばかり考えておりました。人との会話も苦労しました。人と話をすること自体嫌だったのですが、それ以上に訛りが解らず会話が成り立たないことに嫌気がさしました。聞き取れず何回も聞き返すと嫌な顔をされ、聞き返さずにいると注文を間違えたりしました。するとますます会話が出来なくなります。しかし、時が過ぎればいつの間にか出張も楽しみとなり、人との会話も今ではしゃべりすぎだと注意されることも多々あります。あの頃の自分からはとても想像がつきません。そして後悔が一つ。あの頃は電卓が無く、得意先に値段を表示する手段は五つ玉のそろばんです。商業高校で停学スレスレの私がそろばんなど出来ません。あ〜もっと勉強(そろばん)やっておけばよかったと日々悔やんでいたころを思い出します。
 きもの業界は私が入社したころは、小売で一兆八千億円くらいの市場でした。今は三千五百億円くらいだそうです。この急降下の中、創業50年を迎えました。入社してから四十年いろんな事がありました。 だらだら文で書ききれません。続きは来月のわのわ通信で。
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2017年7月
 11月23日(木)・勤労感謝の日に前進座の“たいこどんどん”を観に行きませんか?
 そもそも前進座とは、1931年(昭和6年)に創立されて以来、歌舞伎から現代劇まで多彩な活動を続けている劇団です。私もNPO法人きものを着る習慣をつくる協議会の仲間と10年くらい前から毎年1月に京都・南座に掛かる演目を何度か観に行っておりました。そのときは特典として舞台終了後、NPOの会員だけが南座の舞台に上がり演技を終えたばかりの役者さんと一緒に写真を撮ったりしました。
 2013年1月には東京・吉祥寺にある前進座劇場が閉館するということで観に行って来ました。それからしばらく前進座の観劇は遠のいておりましたが この春、劇団の事務の小林さんが突然“わのわ”にやって来て たった今11月の柏崎文化会館アルフォーレでの“たいこどんどん”の公演が決まったので報告と来場の依頼に来ましたとの事。3月からの“わのわ通信”に開催のご案内をさせて頂いております。
 えんま市の時に前進座の俳優・益城宏さんが、柏崎の後援会の宮崎さんとお二人で訪れ、今日から市長など主な方々の所に公演の挨拶と勧誘に尋ねまわっていたところ、ある方から“わのわ”は3月から告知していると事を聞き、ビックリして訪ねて来たそうです。お二人に成り行きをお話しいたしました。
 その時に、益城さんから興味あるお話を伺いました。今回の“たいこどんどん”は井上ひさしさんの作品で井上ひさしさんは山形県東置賜郡小松町(現・川西町)の生まれです。幼少時貧しい生活を送っていたころに岩手県一関市で前進座が芝居小屋を張っていた時、お母さんに連れられて芝居小屋に行き、お母さんが座長に、お金がないのでせめてこの子一人芝居を見せてもらえないかと頼んだところ座長は親子を小屋に入れ芝居を見せたそうです。井上ひさしさんの演劇鑑賞デビューだったそうです。
 “たいこどんどん”は井上ひさしさんが立ち上げたこまつ座の演目でこまつ座以外は行えなかった演目だったそうです。こまつ座の劇団員は“たいこどんどん”の演目の中できもの姿でタップダンスを踊るシーンがあり、踊りが終わると着くずれがしたそうです。どんな経緯かは知りませんが、あるときそのシーンを前進座の劇団員らに踊らせたら一糸乱れず着くずれしなかったことに感動し、前進座にこの演目の公演許可を出したとの事です。
 最後に益城さんは、「クライマックスの重要な場面でこの柏崎が登場します。是非多くの柏崎の人に観て欲しい」と言って帰られました。内容は観てのお楽しみだそうです。そうそうもう一つ見どころは総勢20名位の役者さんが、主人公2人を除いて90名以上もの役を演じるのだそうです。井上ひさしさんは役者が舞台裏で出番を待っている時間が無駄だと考え、一人何役もこの演目では出演させております。役者さんの早変わりも見どころのひとつかもしれません。楽しい舞台であることは間違いありません。皆さん一緒にきものを着て観劇に行きましょう。
 宣伝!11月22日(水)午後6時から西港町の割烹天屋旅館で第三回“和樂の会”を行います。この時に、前進座の役者さんをお呼びし、明日の演目の説明や見どころなどをお話しして頂き楽しい一時を過ごし、翌日みんなで舞台を観に行きましょう。

きものdeおでかけ へ
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2017年6月
 5月は東京・立川と札幌へ卸しの仕事で出張に行って来ました。立川は今年で7年目です。札幌は仕事では初めてでした。仕事で楽しみといえば夜の自由時間。私は食べるにしても飲むにしても地元のお店を探して入るのが好きです。7年目の立川は、行き慣れた店もでき「去年も今頃来ましたよね?」と声を掛けてくれる店もできました。そうなると帰りに「来年も来るね。」と言って店を出ます。些細ですが、気持ちは楽しくなります。
 初めての札幌・北海道一の繁華街すすきのです。ホテルから一歩出て、さて何処に行こうかと周りを見ますと、先週行った立川の繁華街のスケールを大きくしたような感覚になりました。なんだろうと周りをぐるりとみると全国チェーン店の看板が立ち並んでいます。この風景、今は大きな街に行くと看板の数の少なさ多さは別として同じです。私の脇を通り過ぎたカップルが「よかったね。全国チェーンの○○があって、安心したよ。」そして彼女が「味も同じだし、美味しかったね。」おいおい本当にそれでいいの?せっかく札幌・すすきのまで来て、どこでも食べられる同じ味の全国チェーンの店でいいのか。
 今は、どこに行ってもコンビニがあり、どこに行っても全国チェーンの衣料品店・電気店・飲食店・医薬品店などがあります。駅前・国道沿いは見慣れた看板ばかりです。柏崎に来た人が○○店はここに無いんだとガッカリする人もいるくらいです。私もこれらの店にお世話になることは多々あります。
 これは、全国どこに行っても多少は違っても品ぞろえ・受け答えの対応・レジまでそして飲食店はメニューまでいっしょで安心といえば安心ですが、余所に来たという気分にはなれません。どこに行っても同じだから安心するか、訪れた場所の雰囲気がなくてがっかりするか、皆さんはどう感じますか?
 私は、すすきの0番地で地元の居酒屋で手料理と地酒と地元のお客さんと楽しい一時を過ごしてきました。

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 わのわでは、ここ数年振袖をお求めになるお客様がお越し頂いておりません。堂々と言うことではなく、恥ずかしいことです。この間、私と同年の問屋勤めの女性が久しぶりにお店の手伝いに出張に行った時の話しです。
 親子連れの振袖購入希望のお客様が来店されて接客にあたったのですが、お客様の前で何を言ったらよいか分からなくなったそうです。今の振袖は大半がインクジェットのプリント。故に、生地の良し悪しは無く値ごろ品を使い、染はプリントですから手描きとも言えず型染めとも言えず正直にプリントとも言えず、「写真映りはいいですよ。」と言うのだそうです。よって商品の説明は一切なしで、着装をしてお似合いなもの・お好きなものを選んでいただいて、一式仕立上げてこの金額、着付けを付けるとこの金額、写真を付けるとこの金額、などと金銭の相談だけの販売だそうです。今は商品の説明が要らないから誰でも販売できるよ、との事でした。すでに黒・色留袖 訪問着などもプリントが増えているそうです。同じことになっていくのかな?本物はどうなるのでしょうか?
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2017年5月
 今月23日に岩手県陸前高田市の普門寺に行き、2月19日に行った講演会の中で多くの皆様からご寄付を頂いた「ねがい桜」の奉納を普門寺・熊谷光洋住職の読経で無事、済ませて参りました。
 現在「ねがい桜」は8,000個を超えました。
 東日本大震災で亡くなられた18,550名の御霊を祀る目的で行われている進行中の行事です。震災から6年目を迎え、今回で7回目(年に2度行った年がありました)の奉納式でした。今年は初めて陸前高田市・戸羽太市長もご出席頂き、引き締まった式となりました。皆様にご報告とこれからも引き続きのご支援をお願い申し上げます。

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 さて皆様に一人の女性をご紹介致します。村上市に在住の小田テル子さんです。
 小田テル子さんのお母さん、テイさんは、村上市山辺里で続いた「山辺里織」の十二代伝承者でした。山辺里織とは小田家により代々織られてきた織物の総称です。
 寛政末年から山辺里村庄屋・小田伝右衛門光貞が「繭」の産地であることに眼をつけ、手機を購入し、息子たちに西陣、丹後、仙台で機織の技術を学ばせ、手機の絹織物の生産に着手したのが山辺里織の始まりだそうです。江戸時代には、「村上平」「村上縞」と呼ばれ、仙台平の製繊技法の模倣を行い、その後山辺里平独特の織り方を生み出し、現デパート三越や高島屋などに販路を広げ、一時は仙台平を超えんばかりの勢いがあったそうです。明治9年に「山辺里織」と改め、明治前期には販売が最高潮となり、洋服裏地として、イギリス、フランスにも輸出。フランスでは「サベリ」と呼ばれ高級裏地の代名詞となりました。しかし、寄る波に勝てず、昭和53年に廃業となりました。
 現在は「山辺里織」の始祖直系の小田テル子さんが伝承者として、江戸時代の手機織を再現しています。テル子さんは山辺里織の伝承を母テイさんに拒み続けて来ました。そして山辺里織は一時途絶えてしまいました。しかしながら長年拒んできたテル子さんが平成元年に山辺里織を再開させました。
 小田テル子さんは現在、山辺里織を伝承するため、お一人で頑張っておられます。4月19日に縁あって初めてお会いすることが出来ました。テル子さんは「小さい頃から母の機織の後姿を見て育ち、それを拒んでいた自分も実は機織が大好きだと気づき、今は機を織っているときが一番幸せ」とおっしゃっておりました。また、機織教室を開き後継者探しを行ったそうですが、趣味から脱して一生の仕事とする方は、いまだ現れないそうです。
 テル子さんに山辺里織の作品を見せて欲しいと申し出ると渋い顔をされて、反物は少しずつ織っていますが、きものになる反物は少ないんですとの事。どうしてですか?と伺うと きものとしては売れないから、袋物やその他に切り刻んで小物としてギャラリーなどで販売し、売れたらそのお金でまた糸を買い、細々と織れることへの感謝と楽しみにしているそうです。本当はきものとして売れて一人でも多くの人が山辺里織のきものを着て頂くのが私の夢であり織人(テル子さん)としての幸せです。とおっしゃっていました。

 今月8日〜21日の期間山辺里織のご紹介を店内でさせて頂きます。8日・9日は小田テル子さんご自身に来店頂き、山辺里織の歴史や織の特徴などを説明して頂きます。お越しをお待ち申し上げます。
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2017年4月
 3月27日・28日と京都に行って来ました。目的は今年の小千谷ちぢみや夏物のきものに合わせる麻の帯地と麻の襦袢地生地に墨流しの染出しをお願いに、渇瀦柏工の薗部正典さんに会う為です。
 京都へ行く予定はしていたのですが日程が決まらず、前日になってネット予約をすると、この時期世の中春休み、検索で出てくるホテルは少なく、出てもビジネスホテルが無く、高級ホテルばかりでした。仕方なく一歩手前の敦賀に泊り、翌日京都に入ることにしました。
 敦賀は海に近く海産物の町です。私は初めての場所で地元の居酒屋に入るのが楽しみです。ホテルで紹介してもらった居酒屋へ入り、早速地元の酒とお勧めを聞くと「今日は団体さんが居て魚類は何もありません。」との事、世の中歓送迎会の時期、観光地も居酒屋も繁盛しておりました。喜ばしいことですが個人的にはガッカリです。

 さて本題。2年前に薗部先生にお会いし、サワリだけ墨流しのやり方を教わりました。それ以来の久しぶりの再会です。薗部先生も奥様もお元気でした。染出しの話は直接話をする事ですぐに終わり、お茶を頂いていると、薗部先生と奥様から「わのわさん、うちの商品売らない?」との事。最初意味が解らず「え?直接売ってもいいのですか?」との問いにお二人から昔は昔、今は今、との返答。「よかったら、今選んで行く?」「はい」と即答。別室に通されると六畳ほどの部屋に反物がぎっしり。これみんな在庫ですかと聞くと奥様が「そうなの、在庫抱えて大変なの」と答え、薗部先生脇でニヤニヤ。時も忘れて作品を見ていると先生から「お昼予約したから食べに行こう。帰って来てからまた見れば」と言われ、気づくともうお昼でした。お言葉に甘えて先生の運転(!)で雰囲気の良い竹の庭を眺めながらの季節の筍づくしの食事を頂きました。

 食事中、先生と色々話をさせて頂きました。2年前に伺った時は二十歳後半の女性のお弟子さんが一人、今日は新たに若い女性が二人も入っておりました。先生は今年、80歳だそうです。何とか後継者をと思い頑張って育成に励んでおられます。最初にお会いした方は昨年技能試験に合格し、将来は独立させてやりたいそうです。

 先生にはお子さんが3人おられ、長男はJR東日本で関東に在住・長女は金沢に嫁ぎ・二男は市内で役所勤めだそうです。誰も後を継いでくれませんと寂しそうに一言。二男さんにお孫さんがいて小さい時から継がせようと働きかけはしていて、継いでくれるなら住まいと染場全部譲るのにと言っているが未だ良い返事をもらえないそうです。

 三重県出身の先生は、若い頃にお父様を亡くし、長男で家を支えなければならず、最初は東京に出たのですが、直ぐに京都に移り、染織の世界に入ったそうです。昔は働けば働くほど賃金をもらえ、仕事は見て覚え、そして独立。その頃は銀行も黙っていてもお金を貸してくれ、景気にも支えられ染場も三か所・従業員も30名ほど居て、一日に反物を200反も染めていたそうです。景気に陰りが見えてくると、あっという間に火の車、銀行からの矢のような催促。そして今ある染場以外は全て手放し、最後は奥様と二人で細々と営んでいたそうです。紆余曲折があり、それを見ていたお子さんは継ぐことをしなかったのだそうです。
 それでも諦めず染織の研究をし、独自の墨流しの技術を確立。世界的に有名なスポーツメーカーから皮に墨流しの染織を依頼され、これを機に多方面から仕事が来ているそうです。先生は京友禅協同組合連合会に所属され、きもの振興と後継者育成に尽力を尽くされ、この春功績が認められ黄綬褒章を授与されます。80歳にして前を見据え、ものづくりを追及するエネルギー。まだまだ私たちも頑張らなくてはという気持ちになりました。

 墨流し染の小紋を8反お借りして来ました。「さすがわのわさん一番新しいの選んだね」と先生が。そして先生と奥様が口を揃えて「返さんでええから全部売って。そしたらうちも助かるから」との事。プレッシャーです。
 という理由で京都の名工の貴重な作品を8点、是非見に来て下さい。お待ち致しております。
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2017年3月
 2月19日の講演会「未来をきり開く心を育てる―東日本大震災からの歩み―」には、多くの方々のお越しを賜り、誠にありがとうございました。
 中越沖地震10年という節目に何か行動をという思いで、東日本大震災後から大変お世話になっております岩手県陸前高田市普門寺の熊谷光洋住職に講演をお願いに参りますと、ご住職は東日本大震災で亡くなられた方々の今年は七回忌、これも何かの縁と快くお引き受け下さいました。“NPO法人きものを着る習慣をつくる協議会”中塚一雄理事長(円 純庵)からもこの講演に賛同してもらい、この日の為に円純庵作詞・黒田真里慧作曲の“「2つの海」6000日に祈り”という歌を作って頂きました。

 私の気まぐれで始まったこの企画、思った以上に大きなものとなりました。講演を多くの方々に知って頂くための呼びかけ、会場の設営、歌を作って頂いたのでその歌を歌って頂く方を探すなど、私たち二人だけではどうすることも出来なくなって参りました。
 そんな時、一人また一人とお手伝いして下さる方が手を挙げて下さいました。一番大事な講演を聞きに来る方を一生懸命勧誘して下さる方、歌のためのピアノを手配して下さる方、歌を歌って下さった中林春奈さんを紹介下さり、歌指導までお手伝い下さった方、講演会の司会をお願いすると快く引き受けて下さった方、講演当日朝早くから会場の設営・終了後の撤去をお手伝い下さった方々、本当に多くの方々のお力をお借りして無事講演を終わることが出来ました。本当にありがとうございました。
 
 この講演を終え、改めて一人では何にも出来ないことを知りました。そして人と人との繋がりで大きな思いが現実になり得ることも知りました。わのわのお客様は、いろんな才能・特技・知識をお持ちの方多いです。わのわ繋がりで思っていること、やってみたいことをお手伝いできるかもしれません。そんな会話ができる店になれたらいいなと思っております。
また、ご協力頂きました「ねがい桜」は、4月23日に陸前高田市の普門寺へ奉納して参ります。
重ねて御礼申し上げます。
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2017年2月
今月19日(日)に行われます岩手県陸前高田市の普門寺 熊谷光洋住職の「未来をきり開く心を育てる」という講演会に寄せてお話をさせて頂きます。
 2011年(平成23年)3月11日東日本大震災直後、私の所属する、京都が本部の“NPO法人きものを着る習慣をつくる協議会”の中塚理事長は、支援の行動を起こしました。最初は震災の年の夏、我がNPO法人らしく全国のNPO会員からゆかたの寄付を募り、被災地の方々に差し上げ、その夏に着て頂く活動です。この支援を皮切りにいろんな形の支援を今日まで続けております。
 そんな中 震災から数か月が過ぎたころ中塚理事長から、「わのわさんの知っている人で糸を染めて反物を作れる人を知らないか」という問い合わせが来ました。意味が解らず「どう言うことですか」と聞くと、今、テレビ・新聞で話題になっていて、大津波でたった一本だけ残った奇跡の松の陸前高田市の高田松原を知っているかと聞かれ、その残された一本以外の7万本の松が全て流され、目の前に打ち上げられているとの事でした。その打ち上げられた松できものを作り販売し、売上を支援したいとのことでした。
 突然の提案に戸惑いはあったのですが、相談した十日町の岩田日出夫さんから協力の快諾を頂き、
“松染”が出来上がりました。
 震災の翌年3月9日・10日と初めて被災地を訪れ、被災の凄さに我が目を疑うくらいのショックを受けました。その時に出来上がったばかりの松で染めた反物を被災された方々にお披露目したところ叱られるどころか感謝の言葉を頂き、これで支援が出来ると確信しました。その頃、中塚理事長と熊谷光洋住職が出会い、支援の拠点が陸前高田市の普門寺になって行き、私たちが染め、織り上げた松染のラベルの文字を熊谷住職にお願いしたところ、快く右のラベルを書いて頂きました。
 それから、NPOの活動は熊谷住職のご協力の下、普門寺を中心として支援活動が行われており、今日に至っております。
 ご住職・ご住職の奥様から行くたびに暖かく迎えて頂き、震災の時の話や震災後の苦労した話、感動した話、笑った話、泣いた話などをお聞きし、被災した方々が前を向き歩き出し、一歩一歩力強く進んでいることを実感しています。東日本大震災での陸前高田市の犠牲者(死者及び行方不明者)は1,807名。全体では18,456名が犠牲になっています。この大惨事を目で見、体で体験し、感じ取ったことを熊谷光洋普門寺住職に語って頂き、多くの方々に聞いて欲しいと思いこの講演会を開催致します。

 わのわは、今も支援活動と致しまして熊谷住職の全面的な協力の基“陸前高田染”を製作販売し売上の一部を義援金として寄付しております。
 また“NPO法人きものを着る習慣をつくる協議会”が行っている“ねがい桜”(布で出来た桜)を一個500円で販売し、売上の一部を寄付、桜を普門寺の本堂に飾り、東日本大震災の犠牲者の御霊を祀っています。今まだ途中で御座います。皆様のご協力をお願い致します。
 2月19日(日)午後1時〜3時 市民プラザ2階 風の部屋にて熊谷光洋さんの講演を行います。
 ひとりでも多くの方のお越しをお待ち致しております。    
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2017年1月
 知らないとは恥ずかしくもなく、知らないことを知ってしまうと恥ずかしいものです。
 お正月のお屠蘇(とそ)の意味を初めて知りました。私は、お屠蘇は正月に飲む日本酒とばかり思っておりました。お客様と店での会話の中で遠路嫁いでこられた方が、初めての正月を迎えた時にお屠蘇と思って頂いたものが日本酒でビックリしたと話され、「えっ、お屠蘇って日本酒じゃないんですか」と言ったところ、「違うでしょう」との返事。
 私、六十数年日本酒だと思っておりました。次の日に店に来た方に「お屠蘇って、日本酒じゃないの知ってました?」と尋ねると「知ってるよ。えっ、知らなかったの」私、無言です。するとお客様は「お屠蘇は、数種類の薬草を組合わせた屠蘇散(とそさん)を日本酒などに浸して作る、薬膳酒みたいなものだよ。」との事、本当に知りませんでした。
 屠蘇(とそ)または、お屠蘇(おとそ)とは、一年間の邪気を払い長寿を願って正月に呑む縁起物の酒であり風習である。「屠蘇」とは、「蘇」という悪鬼(あっき)を屠(ほふ)るという説や、悪鬼を屠り魂を蘇生させるという説など、僅かに異なる解釈がいくつかある。と書いてありました。
 ついでに何となく、お節も調べてみました。「おせち」は「御節供(おせちく・おせつく)」や「節会(せつえ)」の略で中国から伝わった五節句の行事に由来するそうです。五節句とは、人日(じんじつ)(一月七日)・上巳(じょうし)(三月三日)・端午(たんご)(五月五日)、七夕(しちせき)(七月七日)、重陽(ちょうよう)(九月九日)があり、1月だけは1日(元旦)を別格とし、7日の人日(じんじつ)を五節句の中に取り入れています。おせち料理はもともと、季節の変わり目とされる「節」に、神に供え物をし、宴を開くという宮中行事で用いられていた料理。「御節供料理」と呼ばれたこの料理は、いつしか庶民の間にも浸透し、お正月の「おせち料理」として定着したので、昔の人々はおせち料理に、豊作や家内安全、子孫繁栄を願う意味を込めたそうです。
 本当に、知らなければ何とも思わないのに、世間の常識を知ってしまうと、恥ずかしいです。もっともっと知らない常識があると思います。皆さん教えて下さい。

 今年2月19日に市民プラザ・風の部屋で、岩手県陸前高田市の海岸山普門寺 熊谷光洋住職をお招きし、講演会を開きます。その打ち合わせで昨年12月7日に伺った時の話です。
 熊谷住職が首を傾げながら、わのわさんどう思う?と訪ねて来ました。昨年11月4日付の神戸新聞夕刊に「理解に苦しんでいます」というタイトルで掲載された内容で、神戸市内のマンションで管理組合の理事を務めている男性(56)からで「マンション内でのあいさつの禁止」決まったことについて、「理解に苦しんでいます」との訴えです。
 発端はマンションの総会の中で、ある親から「(子供に)知らない人にあいさつされたら逃げるように教えているので、マンション内ではあいさつをしないよう決めて下さい」との提案。その上で、子供には声をかけられた相手が住民かどうか判断できないことから「教育上困ります」とも話したそうです。またこの席に来ていた年配の住民も賛同。あいさつをしても相手から返事がなく「気分が悪かった」として「お互いにやめましょう」と意見が一致し、「あいさつ禁止」のルールが明文化されたそうです。
 熊谷住職に、私たちは小さい頃から親に「人に会ったらあいさつしなさい」や「あいさつもできない子はダメだ」などと厳しく言われてきました。このような提案が出ることが、何とも複雑な気持ちですと熊谷住職に申しました。
 皆さんは、どう思われますか?お考えをお聞かせください。
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2016年12月
 11月2日に長岡の久保田康夫さんの自宅兼工房にお伺いして来ました。

 1日・2日と店は第一火曜日・水曜日の連休で、1日は自宅の周りの草刈りなど冬支度を行う予定で おりましたがあいにくの雨、久しぶりに家でのんびり過ごしました。明日雨だったら久保田さんに会いに行くの「いやだなァー」と思っておりましたがその日は青空。気分良く長岡に向かい10時半過ぎ到着。久保田さんの出迎えを受けました。

 久保田康夫さんは、昭和28年から主に小千谷縮の制作に従事し早60年を過ぎました。10数年前に小千谷から今の長岡に越してきたんだそうです。その時に荷物になるというので、制作した端切れや経絣に使う木羽定規など全て焼却してきたそうです。久保田さんもこんなに長くこの仕事が出来るとは思ってもいなく、考えもなしに燃やしたとちょっとガッカリと肩を落としていらっしゃいました。
 久保田さんの自宅の2階が機織の工房です。早速2階に上がらせた頂き、機織を見学させて頂きました。久保田さんにお会いする一番の目的は、今、機に掛かっている紬は、わのわが初めて久保田さんにお願いしたわのわオリジナルの作品で、その進行状況を見たくて無理にお邪魔した次第です。機を覗いた瞬間、すごい!思った通りの出来具合でした。

 久保田さんの作品には、7〜8年前に出会い感動を受けていました。その時は織り人、販売する者ぐらいの気持ちでおりましたが、作品を見る回数が重なるたびにだんだん作品に引き寄せられて行きました。ほとんどが小千谷縮との出会いでした。今年6月に銀座三越にお邪魔した際に久保田さんの縮を持っていき自慢気の飾っておりましたら、店の方がこの縮いいね。と言いその後にこれが紬だったら私欲しいなと言ったのです。帰ってきてすぐの産地問屋に話をしたら、久保田さんは昨年癌の手術をしたばかりで体調を気遣いながら仕事をしているので受けるかどうか分かんないよとの事。でも早々に連絡を取って頂いたら、期間を云わず、体と相談しながら織らしてもらえるならいいよとのこと。是非、お願いしたいとの返事をし、先日、織り始めたとの連絡を頂き、この日に至った次第です。
 今月22日に出来上がって参りました。自慢するわけではないのですが自慢です。さすが伝統工芸士。さすが久保田康夫。わのわの自慢の一品が出来上がりました。是非、見に来て下さい。お待ち致しております。

写真は久保田さんです
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